「駒落ち考」

コラム
 本誌の読者には、大崎善生氏著『将棋の子』を読んだ方は多いだろう。棋士になり
切れずに、奨励会を去らねばならなかった若者たちの生態を綴った一冊だ。
 ゴマンといる将棋の天才を競わせて棋士を選び出す。その棋士の中でも一握りの者
がタイトルを保持したり、順位戦上位者に名を連ねる。彼らは秀でた才能の上にたゆ
まぬ「研究」を積み重ねているのだろう。
 本題に入るが、そうした「研究」を進めることは立派だと認めるが、「研究」を重
ねれば重ねるほど、将棋を指す自由度が失われる気がする。「生活のために」なら、
最善を尽くして研究することはやむを得ないだろうが。
 将棋を楽しむための工夫の一つに、「研究」から離れた「駒落ち」があると思う。
以前、本欄で舛田氏が指摘したことは、「力に差があれば、駒を落として指すのがよ
ろしい」と。平手で勝てば(アマ)レーティングがたくさん上がるだろう。しかしな
がら、「駒落ち」の中に、将棋の面白みが眠っている気がする。
   (二〇一五年一月号 K)